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682本目 ケジメのない日本語/影山太郎

2013年 09月 07日
岩波書店の<もっと知りたい!日本語>第1期の中の一冊

出来事や行為に注目すると、
日本語はどうも開始や結末ではなく、その中間を重視しているという
または、普通の状態では結果を格別に重視しない
このことを「ケジメのない」と表現している



一例として挙げられている「泳ぐ」
"The dog swam to the shore." 日本語に直訳すると「犬は岸に泳いだ」

この英文は、犬は泳いで岸までたどり着いた、という意味になるが、直訳はそうならない
「犬は岸に泳いだ」でも意味は分かるが、曖昧である
岸に向かって泳いだが戻ってきたのかもしれないし、岸まで泳ぎきったのかもしれない

英語は"swim"に前置詞"to"を足すだけで〜へ泳ぎ着くと示せる
つまりは、泳いだその結果までの意味を"swim"が含んでいる
ところが、日本語では、犬は岸に泳ぎ「着いた」と、もう一つ行為を継ぎ足さなくてはならない

このような日本語での「泳ぐ」という言葉を概観してみれば、
泳ぎ始めて、そして泳ぎ続け、しかしその結果は「泳ぐ」の範疇にはない
あくまで泳いでいる、その途中経過を重視しているということ

なお、比較で中国語が取り上げられている
英語は結果、日本語は中途、中国語は始めを重視するらしい
例として、日本語に直訳した「張三は李四を2回殺したが、李四は死ななかった」
日本語ではおかしな意味合いになるが、中国語ではこの表現が受け入れられるという



動詞を名詞化したものについても似た特性があるとの言及もある
ともかく、日本語というのは単語の単位でもケジメ、つまり意味の輪郭が曖昧なところがあるようだ
そんな、おぼろげながら感じていたことがくっきりと見えた気分

それから、曖昧であることは言語の特性で、それが駄目であるということではないし、
曖昧さがどこからきているのか、何かと安易に結び付けることもできない
そりゃそうだ

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by excdaite | 2013-09-07 21:31 |